投稿日:2022.04.16 最終更新日:2024.10.07
セルフポートレート vol.4・・・明日 17日(日)・18日(月)は定休日につきお休みさせていただきます (町田市の外壁と屋根のことなら ぺんき屋美装)
1981年の昭和56年頃のセルフポートレート続きです
前回の内容はこちらからご覧になれますセルフポートレートvol.3
前回は養生や道具に関するお話しをさせていただきました。
今日は実際の施工についてです。
今では当たり前に『足場』を架けて作業を行っています。
それも、ステップのある安定した足場です
ほんの10年前までは単管抱き足場と言ってパイプ足場を使って塗装の職人が架けるのも珍しくありませんでしたし、我が社でも架けていました。
これは、今でも激安業者さんがパイプの抱き足場で危なげな施工をしているのもたまに見かけます。
私が独立した36年前はまだパイプを使った金属の足場より丸太を使った足場の方が住宅工事ではポピュラーでしたね。
話をもう少し戻して、修行時代ですが、当時は足場を架けるというのはとても珍しくて(五本木塗装だけか?)、私が独立するまでの4年間で足場に登って作業をしたのは数えるほどしか記憶がありません。
ではどのようにして塗装工事をしていたか?
それはハシゴを使っての作業です。
2階は全てハシゴ攻めで例えば破風板、軒天井、雨樋の3か所で使う塗料を下げ壺に入れ刷毛と共に左手に持って、1回昇ったら手の届く範囲の破風板と軒天井と雨樋の3か所を同時に塗装します。
塗るのは右手だけですから一度ハシゴを架けると1m程度しか塗れません。
1m塗ったら1mハシゴを動かして足元を整えて・・・の繰り返しです。
そんなやり方でムラにならないように考えて施工をしていました。
今ほど塗料の性能も良く無いですから、当然乾きも今の塗料より遅かったので、そのような工程でも出来たのでしょうね。
当時の目黒区の住宅といえば家の周りのスペースにしても、今よりうんと余裕があったのでハシゴを架けて塗装するなんて事が出来たんですよね。
それでも、身体をのけぞらせてアクロバティックな格好で時には命がけと思えるような危険な環境で作業をするのは日常的でした。
今の世の中では、そんな環境で塗装職人を目指す人はまず居ないと思います。
私が今の職人より根性があったという訳ではありません
当時の職人の世界は塗装に限らず、こんな危険な労働環境なのが当たり前だっただけです。
そんな労働環境でも辞めなかったのは、自分の手で施工した建物が美しくなる事に魅力を感じたのと、こんな私にお客様が感謝してくれて喜んで下さることが単純に嬉しかったから。。
これは当時恐れる物など何も無く、大した学歴も無い私の様な悪ガキでも
『キチンとした仕事を続けていれば世の中に必要とされ、人に喜んでもらえて、その結果社会に貢献も出来るんだ!』と社会に飛び出してはじめて遣り甲斐を感じる事が出来たんです。
私の塗装屋のルーツはこの時に感じたこの気持ちにあります。
さて
今週も一週間ありがとうございました。
また、来週19日(火)からよろしくお願い致します!
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10年~15年先の次の塗り替えまで安心してお過ごし頂ける塗り替えをお約束します
町田市・八王子市・多摩市の外壁塗装はぺんき屋美装
なぜ〝ぺんき屋美装〟の塗り替えは長持ちするのか、動画でご紹介させて頂いております。よろしければこちらもご覧ください
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ではまた!!