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セルフポートレート vol.1・・・明日 13日(日)・14日(月)は定休日につきお休みさせていただきます (町田市の外壁と屋根のことなら ぺんき屋美装)

今日は、私が塗装職人を目指し始めたころのお話しをします。
もともと私は東京都目黒区鷹番に母と二人で暮らしていました。
駅で言うと東急東横線の学芸大学という駅になります。
高校生になる頃にはかなりのやんちゃなガキんちょに成長していました。

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そんな私が塗装屋になろうと思ったのは、10代の終わり頃でした。

当時の私は学歴に価値を感じられなくて、どうせ皆働くのだからと高校にもろくに行かずアルバイトに明け暮れていました。
そのうちに自主退学をして本格的に働きだします。
せっかく入学させてくれた母には申し訳ない事をしたと今は申し訳なく思います。
ですが先生方は多田が辞めてくれてホッとしていたことと思います。
これには色々と理由があったのですが、それは別の機会があればそちらでお話ししますね

塗装に出会う前の私は、色々な仕事を転々としていました
渋谷のセンター街にあったカジノモナコのカードゲームのディラーや、歌舞伎町で流行り始めていたゲームセンターの従業員、運送屋の助手、レストランのボーイ、調理師スタッフなどなど

転々と仕事を変えたのは、嫌になって辞めるというより色々な仕事を知りたかったし、色々な仕事を知ったその中で一生の仕事を決めたいと思ったからです。
大学に行って就職して、その会社、その世界しか知らないで一生を終わるみたいなのが嫌だったんです。
1980年代頃まではまだまだ高学歴がもてはやされ、良い会社に入って永久雇用が一番という時代でした。

当時若い私は、仕事というのは額に汗をかいてするもので
学歴ではなく、自分自身が認められる仕事がしたいと考えていました。
そんな青臭いガキでした。
周りの友人たちのように大学まで進んで、勉強やキャンパスライフをエンジョイすれば良かったと今は思っています
若いうちに沢山の人に出会って様々な個性に関わる事で、今よりもっと広い視野を培う事が出来だろうなと考えるからですが、当時の私は良くも悪くも意思が強くガンコで人の意見に耳を貸す事がなかなか出来なかったのです。

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そんな10代でしたが、17歳の終わり頃だったでしょうか。
地元だった東急東横線の学芸大学の駅前でたまたま小学校の同級生だった女性と久しぶりに再会し意気投合お付き合いをするようになりました。
その女性の実家が塗装屋さんだったんです。
それもおじいさんの代からです。
お父さんは渋谷に事務所を出したと聞いていました。
彼女のお父さんやおじいさんにも認めていただくためにも、という気持ちも少しはあったかもしれませんが
塗装ってどんな仕事だろう・・・とすごく興味が湧いたのを覚えています。

同級生の塗装屋の息子である友人を呼び出し「お前んちで働かせてくれない?」と親父さんに聞いてもらうようお願いしました
直ぐに連絡がありいつからでも働けるとの事でした。
自由人だった私はやっていたアルバイトを、確か喫茶店のボーイか何かをやっていたと思いますが、それをさっさと辞めて、翌日から『有限会社五本木塗装店』に勤めていた「とくさん」という親方の下で見習いとして働き始めました。
とくさんは、背は165㎝くらいとそれほど高くはありませんがガッチリとした体格で色付きのメガネをかけ、すごいガニマタで草履をペタペタ言わせて肩で風を切って歩く『ザ・職人』的な見た目には少々やばい人でした(笑)

この時は、こんなに永くこの仕事(塗装業界)を続ける事になるとは夢にも思っていませんでした。
時は1981年の昭和56年、17歳の夏でした。
ここから私の塗装職人人生がはじまります。

さて
今週も一週間ありがとうございました。
また、来週15日(火)からよろしくお願い致します!

メールでのお問合せは24時間受け付けていますのでお気軽にどうぞ!

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ではまた!!

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